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by tubo_mi
| 2011-12-31 23:59
| 羊毛フェルト
私が大好きな演奏家、鈴木千保さん、松実健太さんがくわわった、実力もあり、油も乗っているすばらしいカルテットのコンサートをご紹介します。
このメンバーでのコンサートで涙が出たと言う方もいました。 チケットは1000円。演奏家の質の高さを考えるとありえない価格だとおもいます。 演目も華やかで気持ちの良い曲があつめられています。 すばらしい春の夕方のひとときになると。 時間を作っても見に行く価値があるとおもいご紹介です。 私ももちろん見に行きます。お近くの方、ご興味のある方はぜひ! #
by tubo_mi
| 2011-03-10 19:25
| 音楽
○→3×5=15 ×→5×3=15 となる正しい算数と正しい漢字が日本をだめするかも?と思いました。
入学試験のために、答えまでの道筋が決められていて、それに厳密に従う勉強をするように求める学校と、答えが使えるものならば答えまでの道筋は自由で色々な道筋を見つけ工夫する力が大切になる社会と、そこで求められる能力が相反しているのと感じるからです。 弾さんのこのエントリーを読んで、日本人の高学歴な人が、学歴だけ高いけれども実践的ではない人(きつい言葉にすれば使えない人)ばかりになってしまうのではないかと思いました。(弾さんのエントリは3x5=5x3というタイトルです。掛け算の可換性を生かした式は正答だ、なぜなら…という内容です。くわしくは弾さんのエントリーを読んでください。) テストの回答などで非常に厳密に決まりに従うことを求められ、その理由があいまいになっていて、結局決まりに従う以外はできない人を育てている? だとしたら発想の自由とか柔軟な思考を妨げることにつながるのではないかと思います。 本質を理解させようとせずに、テストの点が良くなるように模範解答のみをよしとしている現状が今の日本教育にあると思うのです。 これは塾、学校問わずです。むしろ塾でこのような受験対策の勉強を強化した結果、学校もそれに追随している傾向があると思います。 塾では入塾生を募る際に「かけられる数とかける数の違いと決まりを、お母さん、ちゃんと説明できますか?学校で習ってないでしょ?習ったとしても覚えてないでしょ?でも受験にはそういう知識がいるんです。そういう学校では教えないことをしっかり定着させ受験に活かせるようなるためには、やっぱり学校外での学習が大切なんです。そのための塾です」などと学校教育の不足をいいつらね親の不安をあおります。 そして「学校でもそれをはっきり教えてくれ」と言い出す親もいますし、それに答えようとする学校も増えます。 しかし、本質まできちんと教えきれず、うわべだけの法則を守らせることにつながってしまう場合が多いようです。 それを象徴しているのが、乗法の可換性をきちんと教えられない算数と、書き順や跳ね、止め、はらいに異様にうるさい漢字だと思うのです。 以下、細かく理由を。 ◆まず、算数について。 掛け算(乗法)の可換性を使用した式が認められず、なぜ正答がかぎられることになってしまったか。 乗法の可換性を使用した式を単純に正解にできない現状 、(本来は正解であるべきだと思うのですが。)これには大きく2つの理由があると思います。 一つはおしえかたの問題です。 掛け算の特性として3×5=5×3と入れ替えてかまわない(乗法の可換性)というのがあって、義務教育で習うのですが、今の小学校では、かける数とかけられる数という区別をとても厳密にしていて、それを区別する力をつけることにやっきになっているのです。 3個のリンゴのなた皿が5枚あります。リンゴは全部でいくつかな?と考えるとき、3を五回繰り返して足すことを3+3+3+3+3と書くが、それは掛け算で3×5という風にあらわせるんだ教えられることから、かけられる数とかける数は、さらに載ってるモノの数と皿の数というようにはしょって説明されてしまうのです。 だから今の小学校では [リンゴの乗ったお皿が5枚あります。一皿3個ずつリンゴが乗っています。全部でリンゴは何個あるでしょうか?]という問題があったとき、式は3×5=15というもののみが正答にされる傾向が有ります。 一皿あたりに乗ったリンゴの数×皿の枚数という式を立てなければ、問題の趣旨をちゃんと理解していない、という認識なのです。 まれに5×3=15という式を立てると、なぜそのような式を立てたのかを聞いてくれる先生もいらして、子どもが説明できて考え方があっていれば正解とする先生もいらっしゃるようですが、そういった説明や考え方の幅を認められない先生もいるわけです。(怖いことに結構たくさんいると思います。) このあたりの算数の指導のことは このブログのこのエントリーで判りやすくまとめられていましたので、興味のある方はどうぞ。 つまり、今の学校では、『皿に載っているモノの数というのは”一単位あたりの数”で、それを何単位集めるかというのが、かけられる数とかける数の関係なのだ』ということを乗法の可換性を使えるところまで深くは教えていないのです。 それが小学校の算数の授業の現状なのだとおもいます。 本当に大切なのは、一単位の考え方が違うと、かけられる数とかける数が入れ替わっても良いんだ!と知ること。 しかも、掛け算というのはどんな場合にもかける数とかけられる数を入れ替えても計算が成り立つんだ!ということを知り、身に付け、色々な局面で役立てることなのだと思います。 それこそが、子どもたちの真の意味での数学力や思考力を高めるためにとても重要なのだと。 ですが、さきにも書いたように現状の小学校では、これだけのことを丁寧に40名近いクラスの子どもたちに解説し、理解するまできちんと学ばせるということは、ほぼ不可能なのではないでしょうか。(教育の予算の不足、子どもの学力の差、教員の数、教員の質、時間数の制限、子どもの人格を傷つけるなどという言葉での居残りの拒否する親、それをそのまま受けとってしまって「小学校での基礎学力が大切で、居残りをするのは恥ずかしいことではなく、むしろここで身につけられずに大きくなってしまうことのほうが子どもにとって怖いことで、自分で自分を守る力を手に入れられなくなってしまいますから、居残りをしても基礎学力をちゃんとつけましょう!」と親に説明できない校長や教育委員会など、複数の条件がそろっていて、教師一人の力ではなかなかむずかしいと思います。可能なクラスと先生組み合わせもまれにあるだろうと思いますが。) 二つ目は「考え方の道筋を示す方法」を立式に頼る入試の傾向が、考え方の道筋を狭いものに限定しているうえに、四則演算の法則を基にした式と、考え方の道筋をあらわすこととをごっちゃにして採点しようとしていること。 たとえば、単純な足し算でさえ、四則演算の法則にあった立式でも、文章題に沿って考える事ができていると読み取れなければ、まちがいとされます。3+5も5+3も答えは8です。足し算は順序を入れ替えても答えが変わらないという定理があります。 ですが…かたっぽがまるでかたっぽがバツになる場合があるのです。 [由紀子さんは、三個の飴をもっていました。あとから5個もらいました。全部でいくつですか? ]という問題です。これを立式する際、正答は3+5=8とされているようです。 (元からあった飴の数+後からもらった飴の数=今持ち合わせている飴の数)だそうで、5+3=8は認められないのです。(後からもらった飴を今現在手に5こ持っている+ポケットの中にさっきもらった飴が3こある=あわせたら8こ などという考え方は認められないのです) すごく狭い正解しか受け入れられないのが今の小学校の算数になっていると思います。 乗法の可換性を教えてさえなお、文章題の立式には、受験対策で考え方の道筋をあらわさなければいけないと称して、かけられる数とかける数を限定して回答させる場合が多いようです。 問題は、ここでの一単位何かと明確にせずに暗黙の了解で決めてしまい、それにのっとった立式のみを正答として、違う一単位を考え、たてた式を正答とは認めない例も多いのです。 試験の際などに、乗算の可換性を正解とする「数の世界の話」と、「考え方の道筋」というものを、式で判断しようとしているのが問題なのだとおもいます。これは、発想の転換の芽をつぶす乱暴な話だとおもうのですが。 ◆次に漢字の指導について、さらっと。 テストのための正しい漢字が困ったちゃんメンタリティにつながっていくと思うのです。 そして漢字の「止め、跳ね、払い」これもものすごく厳密に教科書の楷書の活字体をまねること、決められた筆順を守ることを求められます。なぜって?入試でとある一画の書き順は何番目かときかれる事に備え、止め跳ねの間違いでバツをつけられて点数を引かれるのを防ぐためです。 大人になったら、色々な活字体で止めとか払いも無い文字に触れ、それだって読めればよいことをなぁなぁのうちに身に付けるし、書き順にきびしいイメージの強い日本の書道でも、草書などになれば書き順もものすごくいろいろ融通が利くことを知る人もいます。が、そこまで漢字の書き順に付いて考察を深める人も少ないでしょう。 学校で習ったものが唯一無二の正解だと思っている人も多いだろうと思います。 こうして、正しい漢字を書ける子どもは、正解を示されなければ不安になり、目的に沿ってそれにあった手段を選ぶことができない「教わってないからできません」「そんなこといわれてません」とのたまう困ったちゃんメンタリティを身につけてしまうのではないかと思うのです。 このように、算数でも、漢字でも「正解が一つ」「先生が良いと教えたものにしがたう事」に慣らされ、それを厳密に一生懸命できる子が成績の良い子になり(これ自体は悪い事とはいえないだろうし、むしろ教師から見ればよい子なわけで…。)、成績は良いけれど、使えない人材が育っていくのではないかと… 試験対策のため勉強の害悪についてもうちょっと… ほとんどの場合、受験のテストというのは、受かる人を決めるのではなくて、落とす人を決めるテスト。 一定の枠に入るまで人数を減らすためのテストだから、何らかの理由をつけて人を落とす必要があるのです。 だから算数などでは式を立てる方法の道筋まで考え方を決めておいて、そのとおりではないものをはじく。 問題を読んで直感的に掛け算だ!と理解し、順序を考えずに式を立てて答えを出す子どもは落とされてしまう。天才というものは往々にして、こういう傾向が強いものだなのに。天才が直感的に解いて連続で正解が出せたとしてもそれに着目してもらえることは少ない。大抵はなぜそうなるかを説明せよと延々いわれ、そのうちに学問さえ嫌いになってしまう天才もいるかもしれない。 直感的にそれができない人は、地道に考え、説明できる技術を磨けば良いと思うし、それはとても大切なことだと思います。 でも説明上手と考え上手と天才って言うのは別物。天才をつぶすのが学校なのかもしれない。 漢字だって、その文字として人に伝わるかどうかよりも、細かい形があっているかがチェックポイントになり、それから外れたら」はじかれるのです。 でもこんな試験のためのことばっかり勉強させられるんじゃ、とても学問の面白さなんて感じられないだろうし、将来学んだことを色々な局面で役立てるなんてできるわけない。本質を教えられていないがゆえに本質を見ようとしていないんだから。 高学歴でも社会で役立つ独創性や創意工夫のできる人が育ってこないのはこの辺の問題じゃないかと。 #
by tubo_mi
| 2010-11-17 00:32
| 教育 学校
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by tubo_mi
| 2010-09-02 02:07
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